第4代懿徳天皇(欠史八代)のお墓を「畝傍山南纖沙溪上陵(うねびのやまのみなみまなごだにのへのみささぎ)」と言います。『畝傍山の南にあるまなごだにの上にあるお墓』と言うことになります。畝傍山(地元では「むねやま」または「おむねやま」と言います)の南の懐に抱かれるようにその「たに」はあります。書物により「ごだに」となっていたり「ごだに」となっていたりします。畝傍山は2005年に国の名勝に指定された大和三山(畝傍山、耳成山、香具山)の一つです。
このお墓の西には、今では山の面影はありませんが「真砂山」(ごやまごやま)があります。
この地域には戦後人が住むようになり、ご自分のことを「真砂山の○○です」と自己紹介される方がおられます。でも地元では「真砂山」と言う名を知っておられる方はほとんどおられないでしょう。

つまり、「
まなごだに」は「真砂山」の東にあり、橿原神宮の杜(「長山」)とに挟まれた狭い世界です。まなごだに」を二分している天皇陵と真砂山に挟まれた地域の棚田は70年代には住宅街となり、天皇陵と「長山」とに挟まれた地域は農地で、字名は「奥の谷」「池田」「ウテビ」「鶴首」「山の谷」「マナゴ」などと呼ばれ、「まなごだに」は言うに及ばずこれらの字名も地元の人はご存知ないでしょう。字名の由来を想像してみるのも楽しいものです。この里山の面影を残している農地一帯を「まなごの里」と呼んでいます。ここは奈良県橿原(かしはら)市西池尻町です。





この地を掘れば土器や鏃(やじり)が出てきます。大昔には集落があったのでしょう。 まなごだに」の東に南北に走る長さ約100m、巾6尺の農道(里道)があります。元々畝傍山の中腹から裾野には棚田が広がっていました。畦道などは等高線に沿った形で走っていましたが、1963年「西池尻町農道整備事業」で幅約2尺程度の畦道(農道)は廃止され、付近の地主の協力を得て巾6尺、長さ約100mの農道が作られました。尚、嵐山・金閣寺・法隆寺・延暦寺などのように当地も 「歴史的風土特別保存地区」に指定されています。この景観がいつまでも保たれますように。
古代史ファンには知られているこの「まなごだに」にある懿徳天皇陵には万葉ハイキングで 犬養孝さんが度々訪れ、近在の農民も作業の手を止めてはしばし「犬養節」に耳を傾け遥か古代に思いを馳せたものです。もう犬養さんのお声も聞けなくなり、淋しい限りです。
畝傍山の真南約3.5キロ、橿原市と高市郡の境界に貝吹山(かいぶきやま)があり、その辺りから描かれたと思われる数百年前の畝傍山の絵図が畝火山口神社にあります。当時の宮司さんの手になるものと聞いています。当時は山には木も少なく、多くの建物があったのが見て取れます。「まなごだに」も描かれているようです。

土器片
***

三方の山が松に覆われていた頃の「まなごの里」

市主催のマラソンコースにもなっています

まなごの里の四季





昔の風景




***
カウンター
***

               
 昔々のお話です。畝傍の山の南に大きな湖がありました。水辺のお地蔵様には、戦乱(いくさ)に疲れ、平和を願う村人の手を合わす姿が絶えませんでした。

 いつの頃からか、村人にまぎれ、眼を患った幼娘(おさなご)が母に手を引かれてお参りする姿がありました。長かった戦乱も止み平和が訪れました。今はお参りする村人の姿はなく、お地蔵様は落ち葉に埋もれ、あの母娘(おやこ)の姿と共に人々の記憶の彼方へと消え去りました。

                            ***

 時は流れて幾星霜、里の山桜は芽吹きはしましたが、まだ吹く風寒い水辺にお地蔵様を洗い清め、静かに手を合わせる見知らぬ老婆がおりました。村長(むらおさ)夫婦は一夜の宿にと水辺の館に招き、老婆の身の上話に耳を傾けるのでした。
                             

 --- 昔、戦(いくさ)に駆り出された父の無事を祈り、母と毎日のようにこのお地蔵様に手を合わせました。母は逝き、父も帰ってきませんでした。寄る辺もなく、父の縁者であったという商人に引き取られました。「きっと会える」との母の言葉を固く胸に秘め商人について諸国を巡り、いつしか眼の病も癒えました。しかしとうとう父には巡り会えませんでした。残された人生もあとわずか、旅の終わりに今は故郷のこのお地蔵様の前で、両親と共に暮らし貧しくとも楽しかった昔を偲んでおりました。私は落ち葉に埋もれたお地蔵様を見て驚きました。お地蔵様の目がなかったのです。お地蔵様はその目を私に与えてくださったのだと思います。そしてお地蔵様のあの笑顔は、「きっと会える」と言った、優しかった母の様でした --- 

 村長夫婦の目から止めどもなく涙が溢れ落ちました。もうとうに日も暮れたというのに、三人は囲炉裏を囲み、手を取り合い、夜を徹して語り明かしました。やがて館には幼娘とその両親の楽しそうな声が響き渡っていました・・・。

 東の空が白(しら)み、夜も明けました。水辺に館はなく、遥か南の空、雲の彼方に三羽の親子鳥が手を振るように飛び去る姿が見えました。水面を渡る春の暖かい風を受け、お地蔵様はいつまでもいつまでも南の空に向かって微笑んでおられました。
畝傍山はもうすっかり春。

                                   ***

 それからというもの、人々はそのお地蔵様を誰言うともなく、「眼福(がんぷく)地蔵」と呼ぶようになりました。
 今、湖は枯れても「お地蔵様」は昔のまま、ほら、今でも南の空に向かって微笑んでおられます。
       合掌