第4代懿徳天皇のお墓を「畝傍山南纖沙溪上陵(うねびのやまのみなみまなごだにのへのみささぎ)」と言います。『畝傍山の南にあるまなごだにの上にあるお墓』と言うことになります。畝傍山(地元では「むねやま」または「おむねやま」と言います)の南の懐に抱かれるようにその「たに」はあります。書物により「ごだに」となっていたり「ごだに」となっていたりします。畝傍山は国の名勝に指定された大和三山の一つです。
このお墓の西には、今では山の面影はありませんが「真砂山」(ごやまごやま)があります。
この地域には戦後人が住むようになり、ご自分のことを「真砂山の○○です」と自己紹介される方がおられます。でも地元では「真砂山」と言う名を知っておられる方はほとんどおられないでしょう。

つまり、「
まなごだに」は「真砂山」の東にあり、橿原神宮の杜(「長山」)とに挟まれた狭い世界です。まなごだに」を二分している天皇陵と真砂山に挟まれた地域の棚田は70年代には住宅街となり、天皇陵と「長山」とに挟まれた地域は農地で、字名は「奥の谷」「池田」「ウテビ」「鶴首」「山の谷」「マナゴ」などと呼ばれ、「まなごだに」は言うに及ばずこれらの字名も地元の人はご存知ないでしょう。字名の由来を想像してみるのも楽しいものです。この里山の面影を残している農地一帯をまなごの里と呼んでいます。ここは奈良県橿原(かしはら)市西池尻町です。





この地を掘れば土器や鏃(やじり)が出てきます。大昔には集落があったのでしょう。 まなごだに」の東の端に南北に走る長さ100m、幅6尺の農道(里道)があります。元々畝傍山の中腹から裾野には棚田が広がっていました。畦道などは等高線に沿った形で走っていましたが、1963年「西池尻町農道整備事業」で幅約2尺程度の農道は6尺に拡幅され直線になりました。尚、嵐山・金閣寺・法隆寺・延暦寺などのように当地も 「歴史的風土特別保存地区」に指定されています。この景観がいつまでも保たれますように。
古代史ファンには知られているこの「まなごだに」にある懿徳天皇陵には万葉ハイキングで 犬養孝さんが度々訪れ、近在の農民も作業の手を止めてはしばし「犬養節」に耳を傾け遥か古代に思いを馳せたものです。もう犬養さんのお声も聞けなくなり、淋しい限りです。
畝傍山の真南約3.5キロ、橿原市と高市郡の境界に貝吹山(かいぶきやま)があり、その辺りから描かれたと思われる数百年前の畝傍山の絵図が畝火山口神社にあります。当時の宮司さんの手になるものと聞いています。当時は山には木も少なく、多くの建物があったのが見て取れます。「まなごだに」も描かれているようです。

土器片
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三方の山が松に覆われていた頃の「まなごの里」

市主催のマラソンコースにもなっています

まなごの里の四季





昔の風景
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